| 【大覚寺・大沢池】だいかくじ・おおさわのいけ |
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平安時代、嵯峨天皇が離宮嵯峨院と名づけてお住まいになったのが後の大覚寺です。
また、嵯峨天皇がとりわけ菊の気品ある姿と香りを好まれ瓶に活けられたことが、嵯峨御流いけばなの始まりとされています。
大覚寺は嵯峨野を代表する名刹で、秋に毎年行われる観月会には風流人がつどいます。大沢池に平安時代さながらの船も出て、名月に情趣を添えるのです。 |
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| 【千代の古道】ちよのふるみち |
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嵯峨という地名にかかる歌枕。 常盤から広沢池の東南に至る小径で、 嵯峨天皇が都から嵯峨離宮(今の大覚寺)に通われた道と言われます。
「嵯峨の山 みゆき絶えにし芹川の 千代の古道跡はありけり」在原行平(後撰集) |
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| 【名古曾の滝】なこそのたき |
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| 「小倉百人一首」に、「瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなお聞こえけれ」と大納言藤原公任にうたわれている滝は、大覚寺にあるこの名古曾の滝のことです。 大覚寺大沢の池の景色は、平安時代嵯峨天皇の頃、巨勢金岡(こさのかなおか)という庭師が中国の洞庭湖を模して造営したものと云われています。天神島、菊ケ島、庭湖石を配し、池の脇には名古曾(なこそ)の滝を置いたものです。 |
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| 【覚勝院】かくしょういん |
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| 明治天皇がご誕生のとき、腹帯のご加持をしたといいます。大根炊きをして無病息災を祈ることで知られます。 |
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| 【鳥居形大文字】とりいがただいもんじ |
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| 愛宕山は火の神様とされており、その登り口が鳥居本です。鳥居本は愛宕神社山道を示す一の鳥居があるので、そう名づけられました。五山の送り火の一つ、曼荼羅山にある鳥居形大文字は、その愛宕神社の鳥居をかたどった送り火とされています。 一番初めに点火される大文字を見てから移動しても鳥居形大文字を見ることが出来るよう、最後に点火されます。 |
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| 【曼陀羅山】まんだらやま |
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| 五山の送り火の一つ、「鳥居形大文字」が点火される山です。その送り火は、曼荼羅山の奥にある愛宕山に火の神様をまつる愛宕神社があり、その神様へ明かりを供える為とも言われます。弘法大師が千体仏を埋めた山という伝説もあります。 |
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| 【愛宕山・愛宕神社】あたごさん・あたごじんじゃ |
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| 東の比叡山と並んで京都を守る、西の愛宕山。愛宕山頂に鎮座する愛宕神社は、防火、火伏の神様として崇敬されています。「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」と言われ、全国に分布する 800 余の愛宕神社の総本社とされています。陰陽道では 愛宕山は、都から見て、北西、乾、妖怪鬼神の棲む所であり、神門として恐れられたとも言われています。 |
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| 【仏野念仏寺】あだしのねんぶつじ |
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法然上人が月輪に修行に通われた頃、ここに念仏道場を開いたことから化野念仏寺と呼ばれることになったとか。
現在の建物は江戸時代の始め(正徳2年・ 1712 )に再建されたもので、明治に入りさらに化野に散在していた無縁仏、石仏、石像約 8,000 体を集め今日の形に供養するようになりました。毎年8月23・24日に千灯供養が行われ、たくさんの石仏に一斉にろうそくが点灯されます。 |
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| 【水尾の里】みずおのさと |
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棚田の風景の広がる美しい秘境、水尾は 奥嵯峨とも言われ、柚子の産地です。冬には柚子風呂を楽しむ人が訪れます。
清和天皇が好んでお住まいになったところとして知られ、 清和天皇の遺骨は水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)に埋葬されています。 |
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| 【祇王寺】ぎおうじ |
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平家物語ゆかりの白拍子、祇王・祇女の姉妹が眠る寺。平清盛に可愛がられた祇王・祇女でしたが、ある日、清盛に舞を披露したいと訪れた仏御前という若い白拍子が門前払いされようとしたところを祇王がとりなしました。ところが清盛が仏御前を気に入り、祇王・祇女は屋敷を追われることになり、庵をむすんだのがこの地です。後に仏御前も清盛の元を去り、この庵で一緒に暮らすようになったと伝えられています。
ご本尊の仏前にある吉野窓は別名「虹の窓」とも呼ばれるほど、窓越しに見る景色は格別です。 |
さが三景
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| 【滝口寺】たきぐちでら |
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代々平家に仕える斉藤家の滝口時頼は十三歳で御所へ出仕した折、建礼門院に仕えていた雑仕女、横笛と恋仲になりましたが、身分の違いから父親に反対され、十九歳で世を捨てて滝口入道と称し、嵯峨野で仏門に入りました。寺に横笛が訪ねて来ても、無情にも追い返します。そのとき、横笛が和歌を書き残したという歌石が門前に残っています。
滝口入道は、横笛が再度訪ねてくることを想定し、この滝口寺を引き払って高野山に移り、「高野聖」(こうやひじり)になったと平家物語で語られています。 |
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| 【二尊院】にそんいん |
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来迎(阿弥陀)如来と発遺(釈迦)如来の二尊を安置することから二尊院と名づけられました。嵯峨天皇創立のあと、荒廃していた寺を、法然上人やその弟子が再興しました。
その頃、上人を大変尊敬する貴族が上人の像を描かせたところ、絵の姿は片足をくずした絵でした。その絵の前で法然上人が祈られると、絵の中の姿が正座したという「足曳きの御影」伝説があります。
二尊院の総門を入ると、小倉山に向かってまっすぐ続く参道があり、その両側に桜が植えられており、桜の季節は見事な花道となります。 |
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| 【常寂光寺】じょうじゃっこうじ |
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小倉百人一首を編纂した定家の屋敷跡で、紅葉が最も美しい名刹の一つです。高倉天皇が小督の局に与えた琴が大切に保管されています。
平清盛が娘の徳子を后として嫁がせた高倉天皇は、琴の名手で美人の誉れ高い小督の局(こごうのつぼね)を寵愛していました。小督のせいで高倉天皇の心が娘に心が向かないと清盛が怒ったため、小督は嵯峨野に身を隠しました。小督恋しさに日に日に弱る高倉天皇から命を受けた家来が、琴の音で小督を探し当てました。高倉天皇は清盛の目を盗んで小督を屋敷に戻したと平家物語では語られています。 |
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| 【竹林の小径】ちくりんのこみち |
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野宮神社あたりの竹林の小径の美しさは嵯峨野を代表する風景。
特産の野宮竹は、弾力がある上、美しく、伊勢神宮の造営にも使用されます。 |
竹林の小径 |
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| 【落柿舎】らくししゃ |
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| 江戸時代の俳人・向井去来 (むかいきょらい) の庵です。去来は松雄芭蕉の門人で、蕉門十哲に数えられた人です。芭蕉も旅の途中で何度もここに滞在し、その頃の様子は「嵯峨日記」にしたためられています。 |
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| 【野宮神社】ののみやじんじゃ |
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伊勢の斎宮に決まった皇女の潔斎所であったところです。現在では縁結びの神社でも知られています。
源氏物語の賢木(さかき)の巻では、六条御息所が斎宮となる娘に同行しようと野宮神社に滞在している間に、六条御息所への未練の断ち切れない光源氏が訪ねてくる舞台となっています。黒鳥居と小柴垣がその時代を偲ばせてます。 |
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| 【清凉寺】せいりょうじ |
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嵯峨春秋庵は、清凉寺の門前通りにあります。嵯峨春秋庵の住所になっている「門前町」は、この清凉寺の門前通りのことです。
嵯峨天皇のお住まいが大覚寺ならば、嵯峨天皇の息子にあたる源融(みなもとのとおる)公のお住まい跡がここ清凉寺です。源融は光源氏のモデルといわれています。
この寺にある方丈庭園は江戸時代の造園家、小堀遠州が作ったものです。
また、和泉式部が愛でたという「軒端の梅」(のきばのうめ)でも知られています。 |
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| 【天龍寺】てんりゅうじ |
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足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺です。 尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と名づけられたと言われています。 京都五山のひとつとして栄え、広大な寺域を有していましたが、度々の火災にみまわれ、当時の建物は殆ど失われてしまいました。
天龍寺にある「曹源池庭園」は回遊式庭園として最古のものといわれ、世界遺産として登録されています。また、境内に「亀山天皇陵」と「後醍醐天皇陵」があり、宮内庁管理となっています。 |
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| 【涌蓮上人】ゆうれんしょうにん |
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| 嵯峨天龍寺に寄寓していた江戸時代の歌人・涌蓮上人(ゆれんしょうにん)は、里人が寺におそなえしたお餅であられをつくり、山籠り修行に持って行き、里人にも分け与えたそうです。あられ・かきもちの原形をつくられた涌蓮上人のお墓の近くで、春秋庵は商いをさせていただいております。 |
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| 【渡月橋】とげつきょう |
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渡月橋は全長 154m 。平安時代は法輪寺への参詣路として使われていたため、「法輪寺橋(ほうりんじきょう)」と呼ばれていました。 鎌倉時代、亀山天皇が、 橋の中央に立つと川下から月が出て橋の真上を渡ってやがて西の嵐山の峰に隠れる様を、 「くまなき月の渡るに似たり」と称えられたところから、渡月橋と名づけられたとされています。
この橋の上流が保津川、大堰川、下流は桂川と言い変わります。 |
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| 【保津川】ほづかわ |
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京都府亀岡保津町から流れ出た清流は、清滝川に合流し、嵯峨の嵐山あたりで大堰川になり、やがて桂川となります。下流では、鴨川と合流して淀川になり、大阪湾に注ぎます。
川沿いの風景の多彩さ、美しさは格別で、 明治時代より観光として始まった保津川下りは、亀岡から嵯峨まで 16km を、 2 時間ほどかけて四季それぞれの美しさをめでながら舟で下る川遊びです。
川下りのもとは、 保津川の水流を利用して下流にある京都・大阪に物資を輸送することにはじまった水運で、この歴史は古く、京都に都が造営される以前、長岡京市に都があった頃から行なわれ、その後京都嵯峨の天龍寺、大阪城築城、伏見城造営と、保津川の水運を利用して、筏によって上流の丹波から木材が輸送され、その資材が整えられてきたそうです。水運が列車にとって代わられてから、観光のための川下りがされるようになりました。 |
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| 【法輪寺】ほうりんじ |
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本尊の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は嵯峨の虚空蔵さんとして古くから親しまれています。『枕草子』でも「寺は」では「壺坂、笠置、法輪」と並び称せられます。
法輪寺は十三詣りで親しまれ、毎年4月13日、 13 歳になった子供が虚空蔵菩薩に知恵と福徳を授かりに行きます。思い思いの 1 字を墨で書いて奉納した後、渡月橋を渡って帰る時に、後ろを振り返るとせっかく授かった知恵を返してしまうとの言い伝えがあります。 |
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